日中戦争と日米開戦·重慶作戦

—田中新一「業務日誌」を通して—

〔日〕芳井研一[1]

はじめに

アジア太平洋戦争の重要な一環である日中戦争が、日米開戦や未発の重慶作戦にどのように関係していたかを検討する。参謀本部第一部長の地位にあった田中新一の「業務日誌」等を使用する。1941年12月8日の日米開戦までの彼らの考え方と、重慶作戦が中止になるまでの過程を考察する。

第一に、日中戦争と日米戦争の関係について考える。アメリカがハルノートで日本軍の中国からの撤兵や汪兆銘政権の否認を不可侵条約締結の条件としたので、日本は最終的に真珠湾攻撃に踏み切った。アジア太平洋戦争は、日中戦争を自力で終結できない日本が、新たに始めた冒険的な戦争であった。そこで日中戦争の展開に即して、何故勝つ見込みのない日米戦争に踏み切ったかについて、「業務日誌」を通して検討する。

第二に、アジア太平洋戦争の初期作戦が一段落してから、第二期作戦として重慶作戦が模索された過程を追う。なぜ重慶作戦構想が着手されたか。その阻害要因は何だったか。浙贛作戦の実施はそれにどう関係しているのか。重慶作戦の中止と1942年12月御前会議決定「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」との関係はどうだったか、を逐次探る。

一 日米開戦への道程と日中戦争

1 日中戦争の長期持久化と南進問題

まず1940年段階の日中戦争と南進問題の経緯を整理する。そして参謀本部第一部長の任にあった田中新一の認識を見る。

第二次世界大戦勃発後の1939年12月、日本陸軍は修正軍備充実計画を実施しようとした。中国大陸に展開している85万人の兵力を50万人に減らし、浮いた35万人分の財源で対ソ戦用の軍備充実をはかろうとした。しかし第二次近衛内閣が武力行使を含む南進政策を決定した直後の1940年8月2日に、華北で中国軍の八路軍40万人が百団大戦を起こした。日本は中国戦線から兵力を撤退する余裕がなくなってしまった。日本軍側の被害は遊撃戦のために拡大した。日本陸軍は、ますます日中戦争終結の見通しを失ってしまった。

1940年11月13日に開かれた第四回御前会議は「支那事変処理要綱」を決定した。その内容は、7月27日に大本営政府連絡会議で決定した、南方への武力進駐を優先させる「時局処理要綱」の方針とは明らかに異なっていた。すなわち「武力戦を続行する外英米援蒋行為の禁絶を強化し且日蘇国交を調整する等政戦両略の凡有手段を尽して極力重慶政権の抗戦意志を衰滅せしめ速に之か屈服を図」り、そのために「特に日独伊三国同盟を活用す」るという決定であった。武力南進ではなく交渉による南進の実施への変更である。[2]転換の直接の理由は、満鉄調査部東京支社調査室にいた尾崎秀実が見透していた以下の点にあるだろう。すなわち、日本は三国同盟の締結により重慶政府が全面和平への決定的段階に進むのではないかと期待したが、実際にはアメリカがビルマルート再開を求め、巨額の新借款を貸与するなどにより中国に積極的な支援をすることになったからである[3]。だがそれだけでは説明がつかない。ヨーロッパにおける戦況が思惑通りに進まなかったことが追い打ちをかけた。時局処理要綱と三国同盟締結の前提とされていたドイツによるイギリス本土上陸作戦が挫折した。10月12日、ヒトラーは上陸作戦を翌年まで延期することにした。

田中参謀本部第一部長は、このような新情勢を受けて対南方武力行使方針を修正せざるを得ないと認識した。それまではイギリスとの単独戦争を想定していたが、この時海軍が主張する英米不可分論を受けいれ、当面は南進に際して武力を行使しない方針に転換した[4]。田中は、部下に「大東亜持久戦争指導要綱」と「対支持久作戦指導要綱」を12月15日までに作成するよう命じた。両案は、1941年1月12日に開かれた参謀本部の部長会議にかけられた。

問題は、この時点における田中の軍事·政治情勢の認識である。日中戦争解決の見通しは後退し、武力南進案が退けられるなかで、それでもなおかつ残された選択肢はヨーロッパ戦線におけるドイツの軍事的勝利に依拠することにあったのは何故なのかという疑問は最後までつきまとう。実際この時の田中の希望は、あくまでドイツの勝利の日のために、アジアにおける日本の勢力圏(大東亜新秩序)を確保したいということであった。

機は熟していないどころか、展望は見えなかった筈である。それでも田中は「南方施策の第一段を、仏印、泰におき、日、満、支、仏印、泰をもって、大東亜の骨幹とすること」とし、「この骨幹建設」を「昭和十六、十七年の間に概成」するという構想を立てた。もちろん日中戦争の解決こそ「第一の眼目」であったが、そのためには英米の重慶政権への支援の効果を弱めるための南方作戦が必要であるというロジックを立て、その上に田中なりの大東亜新秩序論を組み立てたのである[5]

2 日米交渉と日中戦争

日本の大東亜新秩序建設に立ちはだかるアメリカに対して、どう対応するのか。その処方箋を探ったのがこの時進められた日米交渉であった。そこで日米交渉の進展の中で、田中第一部長が抱いていた認識を、満鉄東京支社調査室の情勢認識と対比しながら考えて見る。

この間日米対立を緩和するために3回にわたり野村外相とグルー駐日大使との会談が持たれたが、アメリカの対日態度を和らげることは出来なかった。アメリカは中国の門戸開放·機会均等を日本が遵守することを前提条件としており、日本軍の中国大陸からの撤退を求めていた。このような状況の下で、1940年11月30日、重慶政権と袂を分かった汪精衛政権と日本が日華基本条約を調印した。しかし満鉄調査部の東京支社調査室の分析がいみじくも指摘しているように、たとえ汪精衛政権によって全面和平運動が展開されても、またドイツ等第三国が調停しても日中戦争を早急に解決することは困難であった。日中戦争は独立した戦争ではなく、すでに「欧州大戦を中心とする世界情勢と不可分的な性格を持つに至つた」というのが東京支社調査室のメンバーの共通認識であった[6]。そんななかで尾崎秀実は国内政治のなかで親英米派による巻き返しが進められていることに注目し、なお日米交渉の進展に望みをつないだ[7]

田中第一部長も、日中戦争がもはや「世界情勢と不可分的な性格」を持ってしまったことを強く認識していた。日中戦争認識については、満鉄東京支社調査室の判断と共通の基盤に立っていたといえる。しかし解決策は、第二次近衛内閣や尾崎秀実が求めた日米交渉ではなく、大東亜新秩序の建設と対英米戦争遂行能力の確保のための南進、および独ソ戦開戦をにらんでの北進という南北併進論に沿って描かれた。なぜなら田中は、英米ソと中国共産党が牽制し合っている状況の下では日本と重慶政権との和平交渉は進展しないので、結局ドイツに依拠した現状打開策しかないと考えていたからである。田中新一の1941年3月18日条の「業務日誌」の記載をみよう。

1)蒋か国際情勢の判断に基き対英米依存を決心し「ソ」聯の態度に多く考慮を払ふ

の要なしとせは中共打倒に決意すへし(英米依存に対する自信)。

2)「ソ」聯の願する所は支那共産化と日支紛争の永続なるへし。

若し支那共産跋扈の為蒋か対日長期戦を断念することとなりては困るへく、従

て蒋か戦争断念を思はさる程度に中共を押ふることとなるへし。蒋は即ち此の

「ソ」聯の腹を読みなから、共産方面か極端にならぬ様に中共を圧迫すへし。

殊に北支、蒙彊及満州に追ひやることは一石二鳥にして其の最も希望する所なるへし。

3)中共は戦争を長期化して共産化の実を挙けんとす。蒋は此腹を知れとも和平に決意する能はす。和平後の共産進出を畏るれはなり。和平と共に中共を実力にて断固討滅すへき決意なけれは和平に応する能はす。此弾圧は「ソ」支の関係悪化を予想せさるへからす。

4)「ソ」支国交の悪化を前提とせは蒋は是非とも英米殊に米国を事前に引き入れおくに非れは和平に乗り出す能はす。蒋としては抗戦継続にせよ、和平にせよ、英米依存を強化することか目下の急務なり。

5)蒋は前記の措置を施し和平を希望するも英米は之を許さす。是れ日本の自由行動を恐るれはなり。

6)結局蒋は戦争長期化に基く共産化の不利を熟知しなから和平に赴く能はす、英米に強いられて抗戦するの外なかるへし。

7)国共相剋の激化を促進し、蒋をして抗戦·断念せしむるの外なかるへし。

8)蒋は戦後の復興にも米国利用を考へあるべし。

9)和平は米国「ルート」の外なかるへしと蒋は考へあるへし。独逸の「ルート」再生を計ること。

10)国共相剋激化日「ソ」調整[8]

しかし中国戦線における日本軍の損耗は深刻であった。たとえば「業務日誌」の1941年3月29日条には、第二部長の項に「兵キ痛みあり。火A、我車(四割は使用不能)修理部品なし(武昌二連隊)」と記されている[9]。このような状況を踏まえると、当面ソ連との紛争を避け、南方進出を進めるしかないというのが、この時点での田中第一部長の考えであった。松岡外相がベルリンからの帰りにモスクワに寄って日ソ中立条約を締結したのは4月13日である。田中としては、松岡の行動は思惑通りだったといえる。しかし彼が対ソ戦を想定していなかった訳ではない。

実際田中は日米交渉の進展をにらみながら、4月23日付の「業務日誌」に以下のように「独「ソ」戦開戦の際帝国の採るへき措置」を書き留めた。

1)独「ソ」悪化の傾向に鑑み支那事変を速かに解決しおくは対「ソ」牽制を有効ならしむ。三国同盟の強化なり。

2)支那事変を解決する為、之か手段として日米会談を催す所以にして日米会談は支那事変解決後に於ては米に対する非常なる牽制力ある日本を発見することとなるへし。是れ米の対欧州戦参加を不可能ならしむる所以也。

3)米参戦後は日本は何等日米会談に拘束せられす。

4)独「ソ」開戦に先たち支那事変の解決を切要とし、成し得れは日米友好保持「ソ」米接近の防止を要す。

5)日支軍事同盟

支那満州の安定整理 西南「アジア」の整理 南方確保[10]

田中は、南進論とは別に、この時点でも、独ソ開戦や日米交渉の進展のためには日中戦争の早期解決が必要であると考えていた。しかし彼は、そのための解決策を依然として見いだせなかった。

支那派遣軍総司令官の畑俊六も、重慶政権との和平が遠のいていると考えていた。軍事参議官を経て1941年3月に支那派遣軍総司令官として南京に赴任した畑は、3月27日条の「日記」に、「昨年の七月頃までは重慶も余程へこたれたる模様なるが、日独伊の三国同盟により英米が支を援助することゝなりたる為、之に依存して抗戦の腹をかためたるが如く、従て汪の如きは重慶との和平は絶対に駄目なりと諦らめ居る様なり。彼の口癖の全面和平とは重慶と一処になることを意味するも、彼は其不可能なるを承知しある様なり」と記している[11]。また松岡外相による重慶工作については4月9日条で、「昨年十一月例の松岡工作の主任者となり香港にありし田尻参事官来訪、…同人の言に依れば重慶工作は今全く絶望なり、…米に制せられて和平は到底望みなきを以て汪政権を強化するの外なしとの意見なりし」と記した[12]。また6月28日条には、「本年夏秋の候武力、経済力、あらゆる戦力を総合して重慶を屈服せしむる最后の努力をなす様中央とも十分協議し、先般第一課長及作戦主任を上京せしめ打合を遂げたるを以て、甲、呂、登集団参謀長及波集団参謀長を会同、総参謀長主宰二十八、二十九日に十分の打合せを遂げたり」とある[13]。畑は、赴任後重慶政権に軍事的圧力をかけることを意図していた。しかし支那派遣軍は打開策を打ち出せなかった。1940年9月から支那派遣軍参謀の任にあり1941年10月に陸軍省軍務局軍事課員になった吉橋戒三は、この時期に「重慶作戦は一応は検討しましたが、真剣には研究しませんでした。畑…と人が変わり、後宮…は魅力を感じていたように思いますが、具体化しなかった」と回想している[14]。その通りであった。重慶政権との和平交渉はきっかけさえつかめず、日米交渉も進展しなかった。

3 南北併進論と日中戦争

南北併進論を盛り込んだ1941年7月2日の御前会議決定をめぐる問題を「業務日誌」に即して検討する。この決定が、日米開戦への重要な一歩であったことは、多くの論者が指摘しているところである。対ソ戦準備の着手と対英米戦を辞さず南方進出をはかるという南北併進論の決定は、日中戦争の展開とどのようにかかわっていたのであろうか。陸軍にとっての南方作戦は蒋介石の国民政府を援助する物資流通のためのルートを遮断することを目的としていた。それと対ソ開戦を見込んだ準備(関特演)が重なったので、軍事的にも財政面でも大きな負担になった。田中第一部長はそれらの諸点についてどう認識し、どうかかわったのだろうか。

まず1941年6月22日の独ソ開戦との関係である。先に見たように4月23日付の「田中日誌」では独ソ開戦の前に日中戦争を解決しておかなければならないとし、4月16日から進められていた日米会談を支援する必要があるとしていた。しかしその考えは5月26日の「南方戦に於ける支那事変処理」において、がらりと変わってしまう。中国との和平を急がず、長期戦体制を取るとしている。「事変一応の解決は之を努むるも、特に和平工作を進て求むる事なし」とし、長期戦態勢を確立するために、封鎖·航空作戦を主とすることなどが記されている[15]

そして独ソ戦開戦7日前の6月15日の「田中日誌」に記されている「独「ソ」開戦に伴ふ措置の件」になると、開戦後の関特演実施に至る構想がはっきり示されている。すなわち「開戦必至なるを察知せは満州兵備の増強、在満師団の導引、整備人馬の前進」をはかる。「支那事変は差当り現在の方針を踏襲することとし、在満戦備を充実し、南方展開を行ひ、情勢の推移に因りては機を失せす北若は南に発動す。此際要すれは支那より兵力を転用す」る。「九十月頃に武力行使を可とす」。さらに「本格的太平洋戦争」を準備し、「インド、ビルマ、泰、馬来、仏印、蘭印、比島、沿海州、北樺太、カムチャツカ等を手裡に入るるを要す」としている[16]

ただこれで日中戦争を終えられるとはもちろん考えていなかった。独ソ開戦4日前の6月18日付「独「ソ」開戦と支那事変の帰趨」によると、「支那抗戦の由て起つ主体は英米にして極東に於ける英米「ソ」の連絡は独「ソ」開戦に依りて更に強化せらるるものと予想し得るのみならす、英米亦自己情勢の好転を信じ□に支那をして我に抵抗せしむへけれはなり」。「故に支那事変の解決を促進せんとせは支那自体を直接圧するの外英米の対支遮断を強行するを要す。之か為対英米一戦を辞することなき決意の下に、a)対支交戦権の発動、完全封鎖、租界接収、b)「ビルマ」封鎖、c)仏印、泰の確保、の措置を必要とするものにして此措置なくして支那の屈服を期待するか如きは空想なりと謂ふへし」という。「然るに之等の措置は必然に米の全面禁輸乃至は挑戦を促すに至り、何れにしても馬来、蘭印進出を不可避ならしむるに至るへし」と、この時点でほぼその後の流れを予想しているたことがわかる[17]

そして独ソ開戦2日後の6月24日、参謀本部は「八九月頃好機来」を前提に対ソ戦争準備する必要があると迫った。陸軍省軍事課は「戦備縮小」を求めたので、以後動員規模をめぐるつばぜり合いが続く。25日には、16師団を基準とすると記しているが、「51,57,軍直一部の動員派遣」もすでに俎上にのぼっている。26日、作戦実施の条件として極東ソ連軍の「総合戦力半減を前提と」し、8月上中旬に機が熟して9月に開戦するとの見通しを立てた[18]

6月25日に参謀総長が天皇に会った際に日中戦争について、次のように述べている。「帝国と致しましては、重慶政権に対する直接圧迫を増強致しまする反面重慶政権を背後より支援し其の抗戦意志を弥か上にも増長せしめつつある英米の勢力と重慶政権との連鎖を分断致しますることは事変解決を促進する為極めて必要なる措置と考へらるるのであります」と[19]

それらを前提として作成された「国策要綱」が、同日大本営政府連絡懇談会にかけられた。この要綱は、陸軍省部の合議による6月14日の「情勢の推移に伴う国防国策」を基盤としている。独ソ開戦への対応と南方進出を盛り込んだものであった。陸軍は南北両方面とも武力解決の文言を入れようとしたが、海軍は英米両国を敵に廻すことになるのを恐れて曖昧な表現とするよう求めた。松岡外相は、27日に続行された懇談会で「俄然即時対「ソ」参戦を強調」した[20]。以後松岡は、御前会議を含め一貫して対ソ即時開戦·南進中止論を主張することになる。陸海軍はそれにはともに反対した。結局7月2日の御前会議で南北併進を明記した「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定された。日中戦争の処理に邁進しつつ南方に進出し「情勢の推移に応し北方問題を解決」するとしたこの要綱により、対ソ開戦に備えて準備を整える関特演の発動と南方武力進出が認められたことになる。この南北併進論こそ田中第一部長の意図したものであった。

一方日中戦争については、参謀総長が次のように説明したという。「支那事変処理に就きまして、…帝国と致しましては重慶政権に対する直接圧迫を増強致しまする反面南方に進出致しまして重慶政権を背後より支援し其の抗戦意志を弥か上にも増長せしめつつある英米の勢力と重慶政権の連鎖を分断致しますることは事変解決を促進する為極めて必要なる措置と考へらるるのてありまして今回南部仏印に軍隊を派遣せられますのも此の趣旨に基くものて御座います」、と[21]

7月5日付の「機密戦争日記」によると、参謀次長が「八十万の動員に同意した東条陸相の決意を「見上げたもの」と賞賛したこと、御前会議で原嘉道枢密院議長が対ソ戦準備の必要を説いたことが決定的影響があったとして同議長の「銅像を三宅坂に立つべしと称ふるもの」があったという[22]。7月上旬から逐次関特演の動員が実施された。しかし肝心の日中戦争の解決の見通しは立たない。7月31日、東条陸軍大臣は、田中第一部長の関特演の説明に対して「支那事変処理が第一義なり。此方針を変ふるや。…陸軍は支那事変にて四割損耗。…今や最後の御奉公なり。24Dは計画なり。実際には減ることもあるへし」と述べたという[23]。しかし独ソ戦の推移は、田中がもくろんでいたようには進まず、極東ソ連軍の西送による減員もそれほど多くなかった。そこで8月10日には関特演の当面の中止が決定され、再び南進と日米開戦が問題の焦点となった。

4 日米開戦直前の対中国作戦方針

日米開戦直前の政策決定過程のなかで、対中国作戦方針がどのような意味を持っていたかについて検討しよう。まず尾崎秀実の関特演中止後の情勢分析を紹介し、それと東条陸相·首相と田中第一部長の判断を対比する。日米開戦を避ける可能性はアメリカとの外交的妥協が成り立つかどうかにかかっていたが、それを拒否した論理はいかなるものであったのか。

関特演中止をめぐる状況について、満鉄東京支社調査室の尾崎秀実は次のように整理している。尾崎は、対ソ戦準備が中止になったことにより、対米協調が国際情勢の中では最重要課題に浮上したとして、第三次近衛内閣による日米交渉に注目した。日本の経済的生命維持のための必需品である石油や鉄屑をアメリカから得るか、または南洋方面から得ることが不可欠と考えられたからである。しかしアメリカは日本が南進政策を放棄し、三国同盟から事実上離脱し、中国に於ける英米の権益を再確認することを求めている。これを受け入れることは英米に屈服することになる。日本の政治指導者は、英米に屈服して日本の国家的生存を維持することを試みるか、または南方に進出して資源を確保するかの二者択一を迫られる事態に立ち至った。しかし国民の意向は、それまで繰り返し指導者に吹き込まれた結果反英米的であり、もし指導者が英米屈服の方が合理的であると判断しても、それを受け入れることは出来ないだろう。「屈服は敗戦の後始めて可能てある」というのがこの時点での尾崎の判断であった[24]。南方問題は戦争の直接の危機を包蔵しており、第三次近衛内閣は袋小路に入り込んでしまったのである。満鉄の世界情勢調査委員会はその打開策として、アメリカが求める日本の三国同盟からの脱退を受け入れて中立政策をとるしかないとした[25]。南北二正面作戦どころか全面包囲攻撃を受けかねない状況を回避するためには中立を宣言するしかないというが彼らの判断であった[26]

しかし実際の政策の担い手が、そのような選択肢をかえりみることはなかった。9月6日の御前会議決定「帝国国策遂行要領」は、7月2日のそれをさらに飛び越えて、10月下旬をめどに対米英蘭戦争の準備を整えることを決定した。

10月14日条の「閣議に於ける陸軍大臣説明の要旨」によると、東条陸相はアメリカの主張する中国からの撤兵問題は受け入れられないと突っぱねた。アメリカの主張にそのまま屈服したらそれまでの日中戦争の成果を無にする、「満洲国」をも危くする、朝鮮統治も危くなる、日中戦争における数十万の戦死者、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民の辛苦、数百億の出費がすべて無駄になる、というのが、あえて日米戦争を選択する際の東条の論理であった[27]

その東条が、10月18日に新内閣を発足させ、日米開戦に向けて舵を切る。その際、日中戦争はどのように位置づけられていたのだろうか。11月1日付の「帝国国策遂行要領 大本営政府連絡会議決定」によると、「対米交渉要領」として「甲案…(一)支那に於ける駐兵及撤兵問題 本件については米国側は駐兵の理由は暫く之を別とし(イ)不確定期間の駐兵を重視し(ロ)平和的解決条件中に之を包含せしむることに異議を有し(ハ)撤兵に関し更に明確なる意思表示を要望し居るに鑑み次の諸案程度に緩和す。日支事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙彊の一定地域及海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すへく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従ほ撤去を開始し二年以内に之を完了すへし。(注)所要期間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年間を目途とするものなる旨を以て応酬するものとす」とある[28]

このような認識を受けて11月5日の大本営政府連絡会議において「帝国陸軍作戦計画」が決定された。その第二章は「南方作戦発動に伴ふ対支作戦」にあてられている。南方作戦緒戦の段階では対中国作戦は現状維持であるが、「帝国海軍と協同し概ね現在の態勢を保持すると共に支那に於ける米英等敵側諸勢力を掃滅して政謀略と相俟ち対敵圧迫に努め蒋政権の屈服を期するに在り」とし、「南方作戦発動後露国と開戦の顧慮あるに至らは適時所要の兵力を陸路及海路満州方面に転用す」るとしている[29]。南方作戦のめどが立ったら速かに中国戦線を再整備し対ソ戦にも備えるという方針で、大変甘い見通しであった。そのような見通しの根拠になっていた認識を田中の「業務日誌」から探ろう。田中第一部長は11月27日条の「業務日誌」に「アメリカの根本政策は右の大東亜共栄圏政策との根本的衝突なり。全面撤兵、満州政府、南京政府の否認、三国同盟の死文化、日本の歴史的国是の崩壊なり」と記した。また翌28日には以下の点を書き留めている。

1)支那事変、南方戦争共に世界戦争に於ける歴史的動向の一部を為すこと。

2)従て南方戦争は結局に於て対印、対豪まて進展すへく、太平洋の全面的長期持久

戦たること明瞭。

3)此歴史的動向に於て支那か根本的に解決(日支共存共栄)せらるるまて日支和平

は根本的には成立せす。但し此間に幾多の紆余曲折存し之を活用して戦争遂行に資すへきは応変の手段としては勿論なり。

4)北方の問題も必ずや時を見て国際的に発生すへく、之か解決亦前同断。

5)国際的「ニューディール」

全世界に於ける帝国の帝国主義的利益の増進を図ること。

国際的「ニューディール」の進行上物的及人的資源の利用価値大なる支那及「ソ」聯の援助は当然なり。

6)将来の情勢判断

7)情勢判断に伴ふ国防対策

a)米国の将来企図に関する判断

太平洋制覇、極東基地獲得、航空、通交破壊戦の継続。

b)欧州戦の持久

c)帝国国防圏の確保

帝国持久圏の確保 帝国外郭の確保[30]

田中は、中国と東南アジアでの戦争を世界戦争の一環を構成する「歴史的動向」と位置づけ、大東亜共栄圏の建設を推進するためには日米戦争を戦わざるを得ないと認識した。日米の「根本政策」が正面から対立していたからである。それはあくまで参謀本部第一部長としての軍事的なレベルの判断であった。しかしその内容は、戦略·戦術の選択の範囲をはるかに越え、日本の政治·外交等にまたがる最高国策に属する事柄であった。

二 重慶作戦の模索と浙贛作戦

1 重慶作戦案の再登場

真珠湾攻撃後の中国戦線をめぐる問題について検討した研究として、波多野澄雄「「対支新政策」の展開」がある[31]。1942年12月21日の御前会議で南京国民政府の枢軸側参戦による重慶抗日根拠名目の覆滅という政策転換が行われた背景を全般的な戦局の悪化と英米の重慶政権に対する治外法権撤廃声明に求めている。またその「内的推進力」は10月30日の天皇の「御言葉」と重光葵在中国大使の説得工作にあったとする。このような指摘は大きな流れのなかでは当を得ている。ただこの時戦争指導の中心にいた日本陸軍が直面していた問題に即して考えると、十分とはいえない。

1942年末の重慶政府と南京政府に関する日本政府の政策転換の基本要因は中国をめぐる軍事情勢にあったと見るのが素直であろう。ガダルカナル島に急きょ大量の陸軍兵力を送らざるを得なくなったことは政府の方針転換の時期を早めたが、それが必ずしも主因ではなかった。以下史料的に検討しよう。

日米開戦直後の1941年12月24日に開かれた第七十七回大本営政府連絡会議では、「情勢の推移に伴ふ対重慶屈服工作に関する件」が決定された。主要な項目は以下の通りである。

連絡会議決定

昭和十六年十一月十三日連絡会議決定の対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案に基き情勢の推移特に作戦の成果を活用し好機を捕捉して重慶政権の屈服を策す。

一、先つ対重慶謀略路線を設定す。

二、帝国の獲得せる戦果と彼の致命部に対する強圧とに依る重慶側の動揺に乗じ適時謀略工作より屈服工作に転移す[32]

日米開戦を契機に1940年末の松岡外相の重慶工作以来とだえていた重慶政権への謀略工作を活発化しようという方針である。和平工作とは呼ばず屈服工作としたところに、この時の政府の強い姿勢を読み取ることが出来る。

第23軍による香港作戦は翌12月25日のイギリス軍の降伏で終わったが、香港作戦を支援するために武漢の第11軍が実施した第二次長沙作戦は、中国軍の反撃により撤退を余儀なくされた。大本営陸軍部では以後の中国戦線をどのように組み立て行くかが課題となっていた。連絡会議では謀略工作が俎上にのぼっていただけである。ただ真珠湾奇襲や南方作戦の戦果を目の前にしつつも、陸軍の基本的関心は日中戦争にあったのだから、いずれ積極的な対重慶作戦が模索されざるを得なかった。

きっかけは3月7日に開かれた第92回大本営政府連絡会議における東郷茂徳外相と杉山元参謀総長、鈴木貞一企画院総裁の「戦争指導の大綱」をめぐる以下のような応酬に求められる。

外務大臣 支那問題を斯様にあつさり片付け重慶政権に対しては所謂「諜報路線の設定」だけで済まして居るのは可笑しきに非ずや、軍事的に何とかならぬのか。

参謀総長(杉山)支那のみを考ふれば軍事的にはやつてやれぬことはあるまい、併し北もあり南もあり此等を全部考へれば出来ぬことは判るならん、重慶迄攻め込むと言ふことはことは実際出来ぬ相談なり。併し局部的には無論やる。

外務大臣 併し今迄の条件を或程度緩和して行けば何とか見込みあるべし。

企画院総裁 支那問題を解決するには先つ英米を解決しなければ駄目なり、英米を解決せすして支那に対し手を緩めたら大変なことになるべし[33]

東郷外相から、中国戦線について何とかならないかと問われた参謀総長は、重慶作戦は実施不能だと応え、企画院総裁もそれに追随する発言をしている。「戦争指導の大綱」は、それまで一か月余にわたり陸海軍作戦当局で検討した案である。そこには中国での積極作戦は盛り込まれていなかった。外相発言を受けて急きょ対中国作戦が盛り込まれた「今後の作戦指導に関する件」が作成されたようである[34]

3月13日に裁可され、19日に指示された杉山参謀総長の「今後の作戦指導に就て」のうち「対重慶作戦に就て」では、「事変の即決処理を企図する場合の施策…作戦目的は敵の中央軍撃滅若は重慶政権に対し直接脅威を与へる如き戦略要点の攻略」という文言が盛り込まれたが、そのような積極作戦は「冬から来年にわたり実行」することを目途にするにとどまり、当面清郷工作と治安確保に努めることになっていた。

しかし同時に、研究中の対重慶作戦が示されている。第一は「支那事変処理に対する腹案」で「対蘇情勢之を許す場合に於きましては大東亜戦争の成果を利用し断乎として支那事変処理に邁進し速に之か解決を図」るとしている。ただ「北方の情勢之を許ささる場合に於きましては概ね現圧迫態勢を若干強化する程度に止め長期に於て重慶政権の屈服を期する如く指導致します」となっている。作戦要領は、「上奏案」によると以下の通りである[35]

二、事変の即決処理を企図する場合の施策

(亻)作戦時期

滇緬路線遮断の効果が全支に普及浸透致しますのは遮断後早くも数ヶ月の後と判断せられますので此の時期を選んで積極的企図を行ふことが有利と考へえられます。…

(口)作戦要領

他の方面より若干師団[消去分:南方及内地等より数ヶ師団]を転用し在支師団と併せて稍ゝ大規模なる作戦を行ひます。

作戦目的は敵の中央軍撃滅若は重慶政権に対し直接脅威を与ふる如き戦略要点の攻略[?]、或は重慶政権の統制力を益々喪失せしむる如く各軍の分裂崩壊を策する等で御座います。

[消去分:作戦方面は西安方面、常徳方面等として研究を進めておりまするか右の作戦に際しましては政謀略と密に連繋し特に経済圧迫の態勢を強化致します。

(八)清郷作戦[治安建設]

消去部分には「作戦方面は西安方面、常徳方面として研究を進めて居」ると記されており、このような重慶政権に対する一連の項目が示されているところに参謀本部の姿勢の変化を読み取ることが出来よう。

「機密戦争日誌」には、3月25日条に「重慶攻略論、対北方攻撃論再興す」とある。東郷外相発言との関係はなおはっきりしないものの、3月中旬以降に重慶作戦の再検討が着手されていたことがわかる。27日条には「対重慶戦争指導要綱第一案を起案す」と記されている。「対重慶戦略進攻態勢強化は独「ソ」戦の推移等を見定め本年夏秋の候を目途として推進す」るというのがその主旨で、杉山参謀総長の発言の延長線上に同年末を目標に重慶作戦を実施する計画準備に着手した[36]

「対重慶戦争指導要綱」案が田中第一部長に届けられたのは4月1日であった。同案は未見であるが、「機密戦争日誌」に以下の記載がある。

大東亜戦争後の現事態は支那事変以来未だ嘗てなき対支処理の絶好の機会なり。此機を失せば英米蒋は一体的体型のみに於て処理し得るにすぎず、之を脱落せしむるの努力こそ其の成否によりて躊躇すべき事項にあらざるものと思考す。戦略的成否は別として正謀略的成否の鍵は一に条件に存すべきは日米交渉の経緯に鑑みるも歴然たり。茲に着意して一案を得たるのみ[37]

緒戦の戦果が宣伝されている絶好の機会に軍事作戦を実施すること、さらにその際に和平条件を緩和してでも政謀略を成功させようとする意図が込められていた。

2 ドウリットル空襲と浙贛作戦の発動

重慶作戦の発動に向けて参謀本部が動き出したまさにその時に起こったのがアメリカ空軍によるドウリットル空襲(日本本土初空襲)であった。1942年4月18日のことである。航空母艦から発進したB25の16機が東京·名古屋などの都市を爆撃したあと、中国大陸の華中方面等に着陸した。日本の政治指導者は、日本全土がアメリカによる空襲の射程距離に入ったことに大きなショックを受けた。アメリカとしては、まだ継続的な日本本土空襲を行う余裕はなく、自国の国民感情を汲んでの試験的な爆撃であった。しかし日本本土がアメリカによる空爆の射程内に入ったことは、一般国民に突然戦争の前面に立ったような感覚をもたらし、士気に影響するところが大きいと受けとめられた。総力戦であるから、戦場での勝ち負けだけでは戦争を終えることが出来ない。一般国民の戦争意志の有無が戦争継続のために決定的な意味を持っていると考えられた。そこで、従来の作戦方針を変更し、日本への空襲のためのB25離着陸可能地にある浙江省の玉山などを押さえるため浙贛作戦を実行することになった。この選択が日中戦争の全過程のなかで、大きな意味を持つことになった。そこでこのような決定を行うに至った経緯を、いくつかの史料に即して見ることにしよう。

まず4月18日当日の「機密戦争日誌」である。「絶好の快晴下に午後〇時三十分頃突如帝都空襲を行ふ焼夷弾のみ。国民をして始めて大東亜戦争の渦中に入らしめたるか如き感を抱かしめたり。屋上見物、火事数カ所に起るも大したことなく彼我の識別困難。二機と云ひ十数機と云ひ一〇〇機と云ふ。」[38]。国民が日米戦争の只中にあることを皮膚で感じたことを記しているのが注目される。

この時東条首相は、水戸市の工場視察に出向く予定であった。『東条内閣総理大臣機密記録』によると、「敵機帝都方面空襲の事件発生に伴ひ、宇都宮の行事及水戸の行事の一部の外、予定を取止め一五、〇一水戸駅発、一七、三八上野駅着列車にて帰京」したという[39]。被害状況や敵の意図などについての情報を収集の上、午後8時に天皇に上奏して「将来万全を期する旨」述べた。天皇は「敵機は何処に行つたか、及政策拡充に影響なきや等」質問し、東条は「直に対策を樹立すべき旨」答えたという[40]

杉山参謀総長も天皇に上奏した。彼は帰庁後「今後本格的な大空襲がないとは断定できない。このため次の処置を採るとともに、軍民離間防止と軍需工場掩護の対策を講じなければならない」と述べて以下の対策を指示した。

一 重爆をもってする浙江省の敵飛行場攻撃

二 内地防空飛行隊の増強及び機種改変

三 要地防空のため高射砲、高射機関砲の増強

四 気球に関する処置[41]

ここでは重爆による浙江省の飛行場攻撃にふれているものの、その直後に着手される浙贛作戦にはまったく留意していない。この浙贛作戦こそ、田中第一部長が推進したものであった。田中第一部長は手記で、ドウリットル空襲の全戦局に及ぼす重大な影響とその対策を記し、あわせて重慶作戦が必要であると述べている。少し長いが以下に引用しよう。

空襲対策の成否如何はすなわち大東亜戦争の興廃そのものとなるという認識、並びに今回の帝都空襲方式が将来の慣用戦法化される危険多きにかんがみ、将来の空襲対策としては、単なる防空兵種や装備問題の範囲に止まらず、戦争指導および作戦始動の立場からも国土防空の完璧を期すべき大局的考慮を必要とする。これがため

一制海権の確保

特に太平洋海域及び印度洋海域、北方海域における制海権の確保により、今回の如き空襲企図の未然防止に努めること。これがため、必要なる陸海協力作戦を企図し、また陸軍関係としても国内防空の見地から海域におけるわが海軍部隊の行動、進退はできるだけ承知しておくこと。

二 太平洋海域における島嶼領有

右の目的のため特に防空作戦的見地から太平洋海域における必要なる島嶼の領有を図ることの検討。

三 支那大陸における占領地域の再検討

今回の如き空襲方式(太平洋海域等より発進し空襲の后地の同盟国領域に着陸する方式)が将来慣用せられるという事情にかんがみ、支那大陸における占領地域問題を再検討し、なしうる限り、支那大陸地域が空襲機の着陸点となり、若くは出発点となる危険の減少を図ること。右のためにも一日も速かに日本対重慶関係の根本的改善を図るべき要請は切実となる。太平洋·支那大陸·ソ連地域·印度洋および印度大陸によって包繞せられている日本及び大東亜地域が、今回の如き空襲方式によって脅威せられる危険は将来特に増大するに至る。かくして、不敗態勢の確立も危険に瀕する。

四 防空のための技術的問題 …

五 疎開の問題 …住民及び生産施設の疎開、分散の具体化に着手すべき時である。

六 爾後の戦争指導と作戦指導

以上の諸要因を十分考慮に加え、爾後の戦争指導を再検討し、それに伴う作戦指導を確立する必要がある。上記の如く対重慶関係の根本的刷新に成功しえぬことになれば、米機帝都攻撃によって暴露せられた日本の国土防衛上の大盲点を除去するためにも重慶攻略ということが問題として取りあげられざるをえない。太平洋上から離艦し日本を空襲した後、重慶勢力圏又はソ連領土に着陸する戦法をできるだけ封殺する必要があり、それがための一策としての重慶攻略は新たな国土防衛の観点から見直されねばならない。これを要するに、今や占領地域をこじんまり固めるだけでは結局不敗態勢の確立はできぬ、という当然の理論がいよいよ明確化された[42]

田中はまた、「今や占領要域をこじんまり固めるだけでは、結局不敗態勢の確立はできぬという当然の理論がいよいよ明確化された」とも記している。第一部長として重慶作戦の発動に前のめりになっていた。

ドウリットル空襲の3日後の4月21日、大本営は支那派遣軍総司令官の畑俊六に対して重爆撃機と軽爆撃機のそれぞれ一戦隊を新しく中国に配備すること、華中の飛行場破壊のための新作戦を発動する可能性があるので第13軍の作戦を中止することを求めた。「畑俊六日記」によると、「衢州、麗水、玉山等の飛行機を壊滅する為、或は地上作戦の必要起るやも知れざるを以て、来二十五日より実施すべき第十三軍の作戦を中止して呉れとの次長電」が入ったが、すでに準備が完了しているので急に中止することは統帥上問題があるので、その旨参謀総長に対して意見を具申したという[43]。しかし翌日、参謀総長から「浙江飛行場の撃摧は頗急を要する」ので、「十三軍の十九号作戦は之を中止し、速に飛行場撃摧に転換相成度」との返事があった。やむを得ず野田謙吾総参謀副長と草地貞吾参謀を上海に派遣し、沢田茂第13軍司令官に伝えたという[44]

4月24日、大本営陸軍部は支那派遣軍総司令部に「浙江作戦案」提示した。作戦目的は、「主として浙江省方面の敵を撃破して主要なる航空根拠地を覆滅し、該方面を利用する敵のわが本土空襲企図を封殺する」となっている。「浙江省敵飛行根拠地撃滅作戦打合せの為、参謀本部高山中佐来寧、頗詳細なる案」を持ってきた。畑俊六は次のような感想を日記に記している。

随分人を馬鹿にしたる次第なり。今回中央が此作戦に馬力をかけあるは、日頃総長が国土防衛は完全なりと奏上したる手前、何とかせねばならぬ処まて追ひつめられたる結果なりとのことなるか随分迷惑なる話なり(中央は六月一杯位にミドウエー、アリユシャン攻略の企図を有す)。今回の帝都空襲九機墜落も何だか怪しく、国民一般軍部に対する不信の念を抱くに至りたりとのことなるが、頗る困つた次第なり[45]

上海で高山中佐を迎えた第13軍司令官の沢田茂も、「諒解に苦しむ点は、浙東各地の飛行場は一度之を破壊するも、其の再建は極めて容易なり。何故に永久確保の途を講ぜざるや之れなり。軍特に予は着任以来敵第三戦区の崩壊を其の目標となし来たれり」と日記に記した。前線をあずかる司令官は、この新作戦に対する強い違和感を抱いた。それまで継続して進められてきた華中における軍事作戦を中止して、飛行場の破壊のための新作戦を実施せよとの命令であるから、支那派遣軍の総司令部も軍司令官も強く反発せざるを得なかった。とりわけ新作戦が成功しても、飛行場を破壊して撤退することになっていたから、作戦実施の意義について強い疑義が持たれたのである[46]。しかし田中第一部長は、このような現地の不満を承知しつつあえて浙贛作戦の実施を指示した。4月30日、「地上兵力を以て攻略を企図する敵主要航空根拠地は主として麗水、衢州、玉山附近の敵飛行場群及之に伴ふ諸施設と」するとの大陸命が発された。

第13軍の6個師団は5月15日に杭州から、第11軍の2個師団は5月下旬に南昌から進軍した。9月末までの間に衢州·麗水·玉山等の飛行場を破壊し、浙贛線を確保した。しかし急な作戦であるのに加え、雨が続く季節で道路も悪く、食糧を含む軍需品の輸送がほとんど出来なかった。後方主任参謀の井上克彦少佐によると、「杭州には軍需品が山積されているが、ほとんど消費できなかった」という[47]

現地軍に対しては「高度の現地自活」が求められた[48]。沢田軍司令官は7月2日の日記に「今次の作戦は既に四十数日を経過せるも未だ兵站補給開かれず、各兵団は現地自活に創意工夫を凝らしあり。恐らく国軍未曾有の作戦なるべく、後方勤務の為将来への絶大の参考となるべし。…要するに食糧は現地にて何とかしつつあり」と記した。また8月2日には「第二十二師団参謀長報告の為来部、同師団の栄養失調(?)患者多数にして、反転作戦にも支障あらんかと憂慮しあり。特に食物単調にして食欲不振なりとの事なり。…現在入院百数十名、在隊練兵休等一千余名に上りあり。次期作戦に影響する処大なり」としたためて、食糧不足が作戦そのものの遂行に支障をきたすことを案じた。この作戦を一応終えた沢田は、以下のような感想を持たざるを得なかった。

今次作戦に於ては不得巳事情よりして長期に亙り現地自活を行ひし為、此間道々もすれば皇軍の本来に悖るが如き行為なしとはせざるなり。吾人は今日平常の状態に復帰すると共に当時の心境を一掃し、心の荒みを流し、軍紀厳正、麗はしき皇軍本然の姿に立返り、益々軍紀を緊粛し[49]

結局実施された浙贛作戦は、阿南惟幾第11軍司令官が新作戦を知らされたときに指摘していた懸念、すなわち「総軍か米の小空襲にて浙江作戦をなし、今秋対重慶作戦のため大規模の攻勢をなし得ざるは遺憾なり」の通りになったことが、ここでは重要である。浙贛作戦を実施したことによって、もはや重慶作戦を進める余裕はなくなっていたのである。重慶作戦が実施できなければ何らかの別の方針を打ち出さざるを得ない。つまり最初の設問に戻ると、天皇や重光の行動は、直接「新政策」への転換をうながす意味で政治的効果を持ったことは確かであるが、その決定を必然化した第一の要因はドウリットル空襲に敏感に反応して浙贛作戦を実施したことにあっただろう。

しかし浙贛作戦実施の決定は過誤であったと切り捨てる訳には行かない。東条首相兼陸相等にとって、その作戦は国民の継戦意志を確保するために不可欠であると認識されたからである。和平の段取りがつかない以上、総力戦遂行のためには余儀ない選択であったところに、この問題の鍵がある。この浙贛作戦の遂行過程において、日本軍は731部隊によるペスト菌を使用した住民虐殺などをおこした。

他方ドウリットル空襲は、それまで陸軍の反対し海軍の単独作戦として立案されていたミッドウエー作戦とアリューシャン作戦に陸軍が合意するきっかけとなった。田中第一部長は4月20日、「米機による帝都空襲の事実をも勘案し、今後における太平洋戦域の情勢推移については容易に楽観を許しえぬという見地に立ち、ミッドウエー作戦も謙虚に対処すべきだという態度を」とることにしたという。この時海軍との交渉に当たったのは井本熊男である。「井本熊男日記」には以下の記述がある。

「ミッドウエー」「アリューシャン」各一ヶ大隊ならは可。陸海軍間に紛糾を起ささる如く中央にて決めること。補給は海軍永く置けは海軍指揮に入れるも可。「アリューシャン」「ミッドウエー」は曩に海軍作戦計画上奏の際陸軍は協力せす、海軍単独を以て遂行することと予定しありしも空襲を受けたる結果もあり、若し海軍に於て失敗せるときは大問題なるを以て陸軍も手伝ふを可とする(辻政信中佐主張)意見に基き実施することとなれり。二十日午後海軍に赴き話を切出せし所山本中佐課長大いに歓迎し実施することに概定す。二十一日午前海軍に対し確答す。[50]

緒戦の戦果を前提とした第二段作戦であるミッドウエー作戦とアリューシャン作戦、それに中国大陸における浙贛作戦は、いずれも田中新一参謀本部第一部長のドウリットル空襲への即事的対応にともなって着手された。その対応を規定していたのは、アメリカ軍機による本土空襲の恒常化が国民の戦意を阻喪させてしまうことへの深い恐れであった。

3 重慶作戦の中止と対中国新方針

大本営陸軍部は、浙贛作戦の着手が重慶作戦に悪影響があるとは考えていなかった。

浙贛作戦が開始される前日の5月14日の「機密戦争日記」には「対重慶方策に関し中央が真剣に動き始めたるは心強し」と記されていて、むしろ両者が補完関係にあると認識されていた[51]。5月18日には「対重慶戦争指導を真剣に検討せんとす。第二課も亦研究を進めつつある」ようだと記している。各課で重慶作戦案を練り上げつつあったことがわかる。この頃田中第一部長はどうしたら重慶作戦に着手できるかを真剣に検討していた[52]

7月11日に開かれた陸海局部長会議では、海軍が重慶撃滅作戦を希望した。ミッドウェー海戦の惨敗で放心状態になっていたのだろうと、大本営陸軍部の種村佐孝は思った[53]。この機会をとらえて、7月22日、参謀本部で作成した重慶作戦案を陸軍省側でも検討することになった。東条陸相は賛否をいわなかったという。作戦実施のために必要な船舶10万屯、鉄5万屯を調達出来ないので実行できないと踏んでいるとのことであった。7月22日午後に開かれた陸海軍局部長会議で、佐藤賢了軍務局長は重慶作戦実行に必要な船舶等を海軍から融通してほしい旨を申し出た。海軍側がそれを拒否したことを受け、陸軍省は8月15日、参謀本部に対し、重慶作戦は物的見地からみてほとんど不可能であるとする正式意見を届けた[54]。そこで参謀本部側は、8月17日、陸軍省を飛び越して、すなわち省部の意見不一致のままに、重慶作戦案を大本営政府連絡会議に直接持ち出して決着をつける強硬手段を採ることにした[55]。同案そのものは未見であるが、「参謀本部第二課 昭和十七年 上奏関係書類綴 巻二其一」には、8月23日付の次のような「南方軍林参謀に対する回答要旨」がある。五十一号作戦とは四川進攻作戦のことである。

大本営は既に五十一号作戦の準備を決意し十月頃の情勢を勘案して之か実行を決定せらるる事となりあり。若し本作戦を実行することとならは南方に対し兵力、船腹等増加の余裕全然之無きを以て仮初にも印度作戦の為五十一号作戦を拘束、掣肘するか如き事態の発生は厳に戒めさるへからさる所以なり。

尚五十一号作戦に就ては極力企図の秘匿に勉めあるを以て貴軍作戦関係責任者以外絶対漏洩することなき如く注意せられ度[56]

しかしちょうどその時、重慶作戦の発動を最終的に撤回せざるを得ない新たな問題が起こっていた。8月29日に大本営が「遂に断乎ガ島の米軍を覆滅するに決した」からである。翌日の「機密戦争日誌」は、「五十一号作戦の帰趨逆睹し難く戦争指導亦困難なり」と記している。ただ9月3日には関東軍参謀長笠原幸雄中将と支那派遣軍総参謀長河邊正三中将を参謀本部に呼んで重慶作戦準備についての命令を伝達しており、参謀本部第一部としてはこの時点でもあくまで重慶作戦を強行する決心であった[57]。しかしガダルカナル島への師団派遣決定と両立しないのは明らかであり、重慶作戦は参謀本部の方針としてはすでに完全に骨抜きになっていたといえる。

そこで重慶作戦の中止を踏まえた別の方針案を急きょ作成せざるを得なくなった。それが「新外交」につながる新たな一歩となった。もっとも甲谷悦雄によると、参謀本部による重慶作戦が「漸次見込薄となって来るに従ひせめて政略的に何等か積極的方策を講ずることによつて戦局に一大転換を図らんとする要望が期せずして政府統帥部を通じて表面化して」いたという。それは1940年11月策定の「支那事変処理要領」を白紙還元し、新事態に即応する対中国政策を立てなければならないとするもので、その概要は以下の通りであった。

南京国民政府の対米英参戦を契機として先方の要請を待つことなく我より進んで租界其他各種の利権の返還、支那派遣軍其他帝国政府出先諸機関の支那内政干与の厳禁、和平成立後に於ける駐兵権の抛棄等を約し之に依りて名実共に南京国民政府の政治的地位を向上して其の政治力の浸透を図り以て重慶政権の呼号する対日抗戦名目の根拠を覆滅すると言ふのであつて之に伴って従来陰に陽に各種の方法を以て行はれて居た帝国側諸機関の対重慶和平工作は之を精算するが適当の時期至らば重慶との和平は南 京国民政府の行ふ国内問題として之を取扱はせると言ふ腹案を持つものである。

此の趣旨は昭和十二年支那事変勃発以来の事変処理方策変遷の歴史から見て画期的のものであって此の内特に軍が全面的に支那の内政から手を引いて作戦に専念し南京国民政府の政治的地位の向上を図るといふ点は軍の内外を問はず責任の地位に在るものが斉しく戦争指導部の英断として歓迎した所であった。[58]

「戦争指導部の英断」として歓迎されたということは、このとき参謀本部第一部と大本営陸軍部戦争指導班との力関係が変化したことを示していよう。重慶作戦の中止は、新たな対中国方針立案をめぐる田中第一部長の発言力を弱め、戦争指導班の影響力を強めることになった。そのことが「新外交」の採用につながったといえよう。さらにもう一つの傍証として、戦争指導班は方針転換後の「新外交」案については、すでにそれ以前から検討していたことが挙げられる。きっかけは、6月17日の影佐少将の重慶政権についての報告であった。「眞田穣一郎日記」には、当日の影佐の発言についての以下の記載がある。

重慶が近く屈服するに非や(近き将来)との新聞報道あるも南京を見ていては近き将来に重慶が屈服するか如きことなしとの判断なり。…大東亜戦争のあとに未た支那事変か残るに非すや。…和平地区に於ける日本の約束を履行せぬから条件通りに実行されぬから…作戦の遂行を積極的にやることヽ和平地区の建設を模範的に履行することそれて十分なり。[59]

ちょうどこの頃から汪精衛の南京国民政府の再建問題が浮上する。7月12日、財政部長の周仏海が来日して東条総理に面会した。周は日本側に、第二次世界大戦に枢軸側に立って参戦すること、それに合わせて南京国民政府の独立性を高めることを求めた。戦争指導班は、7月24日に周仏海の「意を諒とし研究すへし」と返答する案を作成した。同日の「機密戦争日誌」によると、「十五課案として条件付き宣戦即ち敵産の処理共同租界の軍政、敵国人の監禁等を提議せしことは軍務局をして宣戦案を撤回する動機たらしむるものと認めらる」と記されている。南京国民政府の参戦をめぐってすでに戦争指導班の案が示されていた[60]。続いて7月29日には宮中情報交換の場で東郷外相から「支那参戦に関し周仏海に対する回答要領」が示された。さらに検討を継続するという内容であり「不可解にも陸軍省のみ参戦を急き他は之に和同」しないという状況であった[61]。このとき戦争指導班は参謀次長の直轄組織から参謀本部第一部第十五課に移っており、田中第一部長の管轄下にあった。しかし当時参謀本部作戦課員だった井本熊男によると、五十一号作戦については「作戦課と第一部長の外は、参謀本部の他の部課も消極的であ」った[62]。東条陸相も、すでに7月16日、重慶作戦の説明に行った第三課員に対し、決意の時期とともに「作戦に伴ふ政謀略」について質問していた。その後参戦案の作成はしばらく保留される。重慶作戦の中止が決まった後の9月30日の「機密戦争日誌」によると「「支那の参戦並に之に伴ふ措置に関する件」第二課及第二部の同意を得たるを以て私見として陸軍省に呈示」したという[63]。戦争指導課の案が第一部第二課と第二部に了承されたのである。

その後示された天皇の「御言葉」や重光の行動は、戦争指導班にとっては渡りに船だっただろう。このようにして、11月30日には重慶作戦は正式に中止され、「新方針」が御前会議に持ち込まれることになった。五号作戦の中止を指示した大陸命は「参謀本部第二課 昭和十七年 上奏関係書類綴 巻一其一」所収記録には11月30日の付箋がついている。実際の指示は12月5日であった[64]

12月21日の第九回御前会議で、重慶政権との和平工作の拒否と南京国民政府の政治力強化を二本柱とする「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」が決定された。それに先立つ18日の大本営政府連絡会議で決定された「具体的方策」によると、南京国民政府には租界の還付と治外法権の撤廃が認められた。治外法権の撤廃が挿入されたのは、その間に英米が重慶政権に対してそれを認める決定をしたので、それに追随するための措置であった[65]